肝付町内之浦の交易と文化の歴史

 
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内之浦は、中国の明からの日本へ移住して来た人々の寄港地でったことが知られています。北郷家が内之浦を飛び地にしていたときには、明からの学者や商人を積極的に受け入れて、北郷家の城の近くに住まわせたといわれます。北郷家が国際貿易を考えていたことが内之浦の飛び地を重視したのです。肝付氏の没落後は、北郷氏の飛び地となるのです。関ヶ原の戦い後に内之浦は、島津の直轄地になるのでした。儒学者の藤原惺窩も内之浦に立ち寄り、明への留学を夢みたということです。内之浦や高山町の肝付河口の波見港で中国の明の人や琉球の人の交流を行っていたのです。

 藤原惺窩の日記では、内之浦で、船頭宅に宿泊して、長男と焼酎をかわして外国の話を聞いたことが書かれています。そこで、ルソン、南洋の風土、知識を聞いて世界の広大さを知りて驚いています。また、琉球にいたことなどから、そこでの珍しい風土、人情の話を聞いています。そして、琉球への航路の記録をみながら、星を見て方向を知る方法などを教えてもらっています。また、宿泊中に唐船の明人から話を聞いていることを日記に書いています。藤原惺窩の日記から内之浦が外国との交易をしている様子が書かれ、琉球などに内之浦の人々が行っていることがのべられているのです。
 
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 感応寺跡の説明掲示版です。

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 性空上人の10世紀の平安時代にはどうであったのでしょう。高山町の肝付側流域は、弥生時代から稲作が行われ、古墳文化、中世の文化も海外交易をはじめ栄えたところですが、内之浦はどうであったのでしょうか。

 性空聖人が開山したとされる感応寺の跡として残る磨崖仏と五輪塔の梵字です。うすくなっていて、よくわかりませんが、梵字と五輪塔はよくみるとわかります。現在は、山下家の庭になっていますが、昔は、寺であったと住んでいる人はいいます。山下家は3つの庭をもった邸宅が並んでいますが、それぞれ、一つの邸宅には、2軒から3軒住んでいる家族共同体です。この地域は、このような広い庭をもって、同じ庭には、2軒から3軒住んでいるところがみられます。この感応寺跡は、乙田集落のあるとおろで、昔から稲作が盛んな地域であったといわれます。廃仏毀釈で寺が失われたということですが、真言密教ということから叶岳全体が信仰と修行の対象ではなかったと思われます。叶岳のふれあいの森にいく麓に感応寺跡の山下家があります。

 性空上人が内之浦でも関係をもっていたということは大変に興味ある課題です。霧島の六社権現を開山して、その修行を終えてから大分にむかったとという話がありますが、霧島から内之浦に下ったということなのでしょうか。内之浦に霧島信仰があって、それとの関係で感応寺が建てられて性空上人の伝説ができたのでしょうか。どちらにせよ霧島の六社権現の信仰と内之浦は感応寺をとおして密接な関係をもっていたことは確かなようです。内之浦の修験道や山伏のことと、霧島との関係をもっと深く知りたいという気持ちにかられました。

ふれあいの森の展望台からみた内之浦の港

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内之浦の乙田にある田の神さま 県道561号にあります。この田の神さまは、石で屋根をつくっています。

 
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高屋神社の近くにあった田の神さま

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景行天皇伝説がある高屋神社

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高屋神社の説明掲示版
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