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神田 嘉延ー歴史文化の旅から学ぶシニア人生ー

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神田 嘉延ー歴史文化の旅から学ぶシニア人生ー
ブログ紹介
 日本の未来を展望した歴史文化の旅



 地域の暮らしの歴史文化から未来を探る


 今、自分の住んでいる霧島の地域を深く考えながら、日本各地、世界への歴史文化の旅をとおしての明日への日本を展望したいと思っています。

 日本は豊かな自然をもっている国です。豊かな自然があってこそ、幸福な暮らしが成り立ってきたと思います。環境問題が大きく問われる現代社会においては、この豊かな自然と持続可能性をもった経済が切実に要求されます。

 山の民の見方

 日本人は山の民、海の民、農耕の民として自然に大きく関わってきました。山の民は日本の各地の峰を駆けめぐり、日本の山、森林の文化を築きあげてきました。

 そこには、沢山のたくみの技もつくってきました。宮大工、船大工、家具職人、工芸職人等。そして、日本全国の文化を交流させてきました。また、修験道というように心を山のなかで鍛えてきました。この山には、極楽浄土から殺傷を嫌う平和の文化があったのです。山には、たくさんの自然の神がいます。その自然の神と仏教が複合的に結びついてきたのも日本文化の特徴です。

 海の民の見方

 海の民は、宇宙の星をみながら、自らの位置を見極め、気象条件、四季の変化、潮の流れの変化をじっくりみながら航海技術を深化させてきました。

 この航海技術の進歩は、世界へと羽ばたき、交易の民として、異民族文化との接触を積極的にできるようにしたのです。異文化との接触は、珍しい文化のふれあいもでき、創造性をつくりだしました。そして、貴重な財を蓄積し、文化が複合的に豊かになってきたのです。ここには、世界兄弟としての平和の文化もあったのです。海は命を一挙に奪う自然の恐ろしさもあります。海の神に対する安全祈願は海の民にとって大切なことなのです。

 農耕の民の見方

 日本における農耕の民は、山の民、海の民との関係によって生きてきました。海の民によって海外の食の文化が入り、新たな農作物も導入されて、日本の自然条件に合わせて、工夫した生産をしてきたのです。自然条件に不可能と思われる農作物をつくってきたのです。ここには、自然のものではなく、自然と積極的につきあって、豊かな衣食住をつくってきたのです。

 山の民との関係によって、心地よい住宅や工芸品が提供され、里山によって、肥料や薪が確保されてきました。山の民によって貴重な水源の保全と提供、自然の情報、各地の文化の情報、旅の案内人をしてもらったのです。

 日本は、山の民、海の民、農耕の民、異民族と、それぞれの異なる暮らしの基盤と文化の違う人々が共生して、文明を発展させてきたのです。

 霧島歴史文化の特徴

 霧島山麓には人類の未来を考えていくうえですばらしい歴史と文化がありました。
 今、人類は、平和と持続可能な社会をめざすために新たな夢を探っていく時代です。

 霧島山麓は、天孫降臨のニニギノミコの神話があります。この神話は、人間と自然を考える古代文化の結晶でもあります。都城横市では、縄文晩期の稲作跡もみつかっています。日本の国土で、最も古くから稲作の生産が行われていた地です。
 
 霧島山麓には、独自に古墳時代の古代地下式墳墓がたくさんあります。また、古墳時代からの儀式に使用する蛇行剣もたくさんみつかっています。地下式墳墓には、職人の工具と龍紋様の剣、朱色での壁画もあります。 

 象嵌による装飾を施した鍛冶具が新たに見つかりました。日本列島でも、朝鮮半島でも出土したことのない新発見の資料です。象嵌装飾は古墳時代後期の最先端技術です。そこでは、文化水準の高い貴重な遺産が発見されています。

 今から1100年前には、京都の貴族屋敷に匹敵する大きな豪族屋敷と高い文化の営みが都城金田地区で発見されました。同時代、そのまわりには、多くの住居跡が確認され、ひとつの都市が形成されていたことがみられます。ここでもなぜ、霧島山麓に豪族屋敷が作られていたか大変に興味ある課題です。

 前記の10世紀の同じ時代に、霧島六社権現が性空上人に整備されています。霧島山麓は、10世紀に一つの文化が栄えていたことを意味します。その経済的な基盤は何であったのでしょうか。霧島山麓の歴史文化の価値が大きく高まっているのです。
 

 霧島山麓は、シラス大地ということから、天然の登り窯が作りやすい条件をもった場所が数多くあり、樫の木も豊富で良質な白炭を生産してきました。山からの水が豊富で扇状地帯を形成し、湧き水が方々に出ている地形的な特徴もあります。この地形の特徴は、水田が早く作られるのに適していました。鉄の生産も行われていました。
 
 霧島山麓は、今昔物語やつれつれ草に登場してくる性空聖人の修行の地であったのです。日本の説話のはじまりでもあります。神社とお寺が混合していた六所権現の聖の山でもあります。この文化は江戸の末期までも続きます。

 霧島には、多様な価値を認め合う日本文化の平和の源が霧島にあったのです。霧島の歴史文化の豊かさは、自然循環的な営み、森と水、大地の恵みがあったからです。

 戦後民主憲法の原案が霧島山麓でつくられていた

 明治8年、東京の朝野新聞に、鹿児島県襲山郷在中(霧島)の竹下彌平の名によって、民主憲法制定草案が投稿されています。正規の名前ではないと思われます。この地は、西郷隆盛もよく来ていたのです。
 自由の理によって、国会を国の最高権限機関とし、為政者を豹変させないために憲法制定の緊急性をあげているのです。 

 明治維新は、日本が植民地になる危機的な国際情勢でありました。欧米諸国がアジアの諸民族を植民化していく時期です。明治維新政府の5箇条の御誓文は、広く会議を興し、万機公論に決すということ、そして、旧来の陋習(ろうしゅう)を破り天地の公道に基づくべしとしました。
 
 霧島の憲法草案は、ドイツ憲法をモデルにしての明治天皇の暫時立憲政体詔書の出る2ケ月前の執筆です。自由の理によって、国会を国権の最高機関と考える対照的な憲法草案が霧島で考えられていたのです。
 
 霧島には、天孫降臨、神仏混合等の伝統的な文化が凝縮されていると同時に、日本の未来を人類史的な普遍的な原理で考えていこうとする側面も同時にみられます。明治8年の霧島での民主的憲法制定案は、深い歴史の中からみていくことも必要とみられます。

 明治維新のときの廃仏毀釈という神仏混合の伝統的な文化を破壊した一面があったことも決して忘れてはなりません。霧島山麓の貴重な文化遺産が廃仏毀釈によって、失われていったからです。霧島の歴史文化が目にみえる形で文化財として今日残っていないものが数多くあるのです。

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