豊臣秀吉築城の玄海名護屋城ー幻の軍事巨大都市ー

 
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名護屋城は唐津市の松浦半島の先端にあります。名護屋城跡周辺には、各藩の陣屋跡もあり、武士だけで\も20万人があつまり、商人も含めて、30万近くの巨大な都市が形成されたといわれます。名護屋城跡には佐賀県立名古屋城博物館があり、その歴史や朝鮮半島の交流について詳しい展示がされています。

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秀吉は、名護屋城を拠点にして、朝鮮半島から大陸への侵略を実行したのです。名護屋城跡は17ha、有力な諸大名の陣屋群のうち、23ヶ所56haが現在において遺跡指定されています。陣屋は大小140ヶ所ということで、松浦半島に広大な面積を有しているのです。

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 文禄・慶長の役(1592年から1598年)の朝鮮半島への侵略軍の前線基地が厖大なものです。天下人になった秀吉の大陸への野望がいかに無謀であったものか。秀吉が天下統一していく過程であった人心を把握し、敵も味方につけていくという綿密な計略と情報を収集していたことから考えると、朝鮮半島の侵略への野心は、それ以前と異なった秀吉像をみるのです。
 秀吉の死によって、苦戦を続け、敗走の日本の武士軍は撤退するのです。7年間の侵略戦争は秀吉の病死によって終結するのでした。この戦いは、朝鮮半島に甚大な被害をもたらしました。苦戦を強いられた日本の武士軍は、残忍なふるまいをしたのでした。暴力と権力によって、無謀な侵略にかりだされた者が、窮地に陥ったときに、その人間たちの残虐性の一面がみられるのです。また、朝鮮の文化財、農地が荒廃し、国力の回復には長期の時間がかかり、慶長9年・1604年まで国交回復の交渉契機をみつけることができなかったのです。
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 その後に、徳川幕府によって朝鮮との友好な関係の努力がされ、朝鮮特使の実現によって日本と朝鮮との友好関係が築かれていくのです。朝鮮特使によって、徳川幕府は、朝鮮の文化を積極的に学び、江戸時代の日本の統治思想になった朱子学も朝鮮文化から学んだものでした。まさに、江戸時代は、誠信外交として、「互いに欺かず、争わず、真実をもって交わることが誠信である」と円滑な外交関係を朝鮮特使によって確立したのです。

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