和歌の歌枕地と大隅国府跡・国分府中町

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 ここでうたわれた和歌の内容の一部 天神台の小公園にある解説掲示板です。

 元号が平成から令和にかわりましたが、令和は、万葉集の梅歌からとったといわれます。日本古典の和歌を考えていくうえで、大隅の国からもみていく遺跡として、気色(けしき」の杜の歌枕の地を紹介します。
 
 国分の府中町は、大隅国府のあったところといわれています。その街のはずれに気色(けしき」の杜といわれたところがあります。ここは、和歌が詠まれた場所で、歌枕の地であったのです。東側の近くには大隅の国府があったところであるとされています。その地は、祓戸神社として現在でも地域の人びとのあつい信仰の場所となっています。また、西側は、天降川を越えて山のすそのに鹿児島神宮が鎮座されています。

 天神台の小公園からは仮名墨書土器(かなぼくしょどき)が発見されました。土器の内側には和歌の下句と思われる仮名文字が見つかりました。10世紀はじめと推定され、大隅の国の班田制確立の時期といわれます。大隅の国での律令制が疑問視されるのは、すでに荘園制のはじまりで大隅の国でも豪族が割拠していたときからです。

 しかし、日本の各地での和歌の文化はこの地でもうたわれています。この気色(けしき)の歌枕で和歌が詠まれていたのは興味あるところです。大隅の国でも和歌の文化が大きく育っていたのです。

 日本の文化として元号が使われてきましたが、戦後の民主憲法では、国民の慣習的なこと、象徴天皇のなかで利用してきたのです。歴史を時系列的に考えていくうえで西暦で年号をみた方が理解しやすいと思います。新聞や歴史書はカッコをつけて元号を表記していると思います。象徴天皇制のなかで、ときの為政者の総理大臣が前面に出て、テレビ報道で談話をのべることは、元号を政治的に利用していると思われます。

 とくに、安倍晋三首相談話の内容で厳しい寒さの後に春の訪れ、明日への希望ということで、厳しい寒さとは何を意味するのか。軍備を増強しているのをみると、何か怖い感じがします。万葉にうたわれた「初春令月、気淑(きよ)く風和らぎ」は梅花の歌として、その情景での感情表現で日本人のもっている自然に対する豊かな情操です。厳しい寒さの後にということはどこもない表現です。

 万葉集の歌では冬の雪を歌ったものが多くあります。万葉の時代の梅は白梅です。枝に積もった雪と似ていることから梅と雪を関連させてうたっているのです。冬のうちに咲く梅を雪と関連させているのです。

 安倍晋三があえて厳しい寒さの後に春の訪れを強調したことは、戦前の勝つまで辛抱せよという国民総動員の耐える生活を思いださせるものです。素直に自然の美しくの情景をみてほしいものです。また、この万葉の歌の令月は良いという意味で陰暦の2月の別名です。決して命令、法令、長官の命、いましめなどにとってほしくないものです。これを機会に日本の万葉の心にある自然に対する情感を深く知ることは大切なことだと思います。

 また、万葉集は中国文化の影響を受けて日本独自の文化を花咲かせたのです。国際協調主義にたって、決して民族排外主義の独断的国家にはなってはいけないのです。平成時代に、天皇のつくされた平和主義を大切にしてほしいものです。

 安倍晋三のようにかってに厳しい寒さの後に春という傲慢な態度、嘘や謀略、弱いものいじめをする為政者の感覚ではなく、日本人の自然に対する豊かな心、人間的絆と思いやりの文化をよみがえさせてほしいものです。万葉集から元号をとったことを契機に自然を破壊する大規模開発、山間地の大規模メガソーラー開発ではなく、自然循環型の科学技術と豊かな自然と共生する新しい開発を大いに考えてほしいものです。


和歌がつくられた遺跡が出てきた地

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歌枕地からみた現在の景色

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天神小公園の付近の道路側

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 大隅国府のあったとされる祓戸川神社 他の説で隼人真考(しんこう)に国府があったという考えもあります。場所はともかく、この地域は大隅の国の中心地で文化が栄えたところであったのです。


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 下記の写真は和歌が詠まれたこがの杜で、松永用水の流れているところで、手籠川の近くです。

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