霧島市国分の唐人町と舞鶴城

 島津義久は、1570年に薩摩を統一し、1576年に三州を統一しました。薩摩統一の二年後にアジアとの交易の支配権を確立していくうえで、琉球との交易をする商人に薩摩藩の正印を持たないものに船や財貨を没収するという書状を琉球王朝に送っているのです。琉球貿易の独占の態度をもっていたのです。また、九州王国の達成のために、大分の大友宗麟を1578年の耳川の戦いで破りました。
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 その後に相良家、肥前の龍造家を1584年に破り、九州統一の実現をしていったのです。まさに、戦国末期の時代に島津義久は薩摩の国の統一から九州国の統一に動いたのです。しかし、全国の制覇を考えた秀吉に、九州征伐の大軍出動口実を与え、1587年に軍門に下るのです。旧領地の三州は安堵されましが、島津義久の九州国の夢は実現しませんでした。

 秀吉による三州の太閤検地が行われ、諸領主の大移動が命ぜられ、秀吉の三州内の地盤がつくられていくのです。島津本家と都城領主との争いになる後の庄内の乱の原因にもなるのです。太閤検地は1594年に終わりました。

 義久の拠点は、現在の霧島市隼人浜の市に富隈城を1595年に築きました。徳川家康より、関ヶ原の処理をめぐり、三州の領土は安堵されました。鹿児島の鶴丸城に1602年に島津家の家督を継承した家久が入りました。義久自身、1604年に国分郷の大隅国分寺跡近くに京都の町並みと国際交易性をもった舞鶴城が必要であったのです。戦国時代から徳川の天下統一によっての国際交易と太平の世の城下町を考えたのです。国際交易として唐人町が必要であり、明国の人々を厚く抱えたのです。

 唐人町は、国際交易のために明国から商人を集めてつくったものです。唐人町の近くには、広瀬川をさかのぼってくる貿易船の船着き場がありました。今でも中島、島田、中州という大河川を想像できる地名や川筋がうかぶ向河原、前河原、中河原、古川、滝川という小字名があるのです。

 また、船が入ってきた証としての湊町という地名が残っています。隼人の浜之市も大隅八幡宮の浜下りの場所です。天降川にそって、ここも昔から交易が盛んな場所でした。そこに、義久は富隈城を築いたのです。国分の舞鶴城は、京都と同じような町並みと文化的な整備をしていくためであったのです。

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 義久は、明国から学者や技術者を多く召し抱えました。江夏友賢は明国からの帰化人で京都の町並みにならって独自に舞鶴城の町並み建設の担当をするのでした。江夏友賢は著名な易学者であったのですが、町並みづくりの担当に力を発揮するのでした。

 ここでは地形を配慮して、修正しながらの風水の思想を生かした建物の配置と町並みづくりで自然と共生の町づくりをしたのです。富隈城も舞鶴城も天守閣をもった城ではないのです。舞鶴城は城下町として整然とした碁盤通りの町並みをつくり、武家屋敷街、加治木町、商人街、唐人町、高麗町を設けたのです。

 ここでなぜ一国一城令以前の富隈城も舞鶴城も天守閣をもつ重層的な高い建築の城をつくらず、屋形造りの城であったのかということです。つまり、なぜ、権威をもつ重層的な高い天守閣の城ではなかったのかということです。ここには一極集中的な武士団を城下町に集めるのではなく、中世的な各郷の秩序を維持しての兵農分離を徹底するものではなかったのです。

 武士団の権威の意味が郷村制の秩序のなかであったのです。武士団層が郷の麓集落ばかりでなく、農村のなかにも存在していたのです。農村では粗末な屋敷で耕作地も少なく百姓も貧しい武士がいたのです。農民ばかりではなく下級武士にとっての開墾田の要求があったのです。

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唐仁町の公民館

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 唐人町の正覚寺跡公園にある煙草試作研究開発の服部宗重の碑と明国からの渡来の林家等の墓群

 慶長11年(1606年)に義久の命によって、服部宗重が、この地でたばこの試作をしているのです。舞鶴城の商人街の近くで新しい産業づくりの取り組みがおこなわれはじめたのです。ここには、未来に対する息吹があったのです。

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 明朝の高官であった林鳳山(ほうざん)が国の乱を避けて日本に渡来してきたのです。彼は島津義久に召し抱えられて唐人町の発展に尽くすのです。義久のつくった城の近くは、広瀬川が流れ、唐船や琉球船が入ってきたのです。

 鎖国令の後に、広瀬川は川筋の大工事を4年間で行いました。1666年に完成し、新たな新川をつくり、川筋が5000石高の新田になったのです。川筋の開墾は自然の復元力によって、大雨が降れば水があふれ出やすい地形であるのです。現代でも水害の防災対策として、歴史的地形を知ることは大切なのです。

 城をつくり城下町を整備して、その周りの川筋を開田して、川筋の水量調整や保水機能を水田整備のなかで成し遂げていくのです。この事業は国分平野全体の水路や開田の整備をしていくのです。松永用水路、平溝用水路・清水新田、重久溝用水路、宮内原新田用水路と整備されていくのです。

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 国分平野には武士の麓集落と郷村制が国分郷、清水郷、重久郷、日当山郷村と存在したのです。これらの郷村が統一して国分平野の用水路と開田をして、産業の発展と治水事業をしてきたのです。山の整備も薩摩藩の林野やそれぞれの村の林野を整備して森林の管理と治水事業を結びつけることから植林の奨励もしたのです。

 現代的に地域社会の循環機能を整備して、防災機能を充実していくうえで、森を大切にして水源を確保し、水路をつくり、水田整備の開墾と、循環機能の環境を大切にした自然との共生の開発が求められているのです。開発をしていくうえで歴史から学ぶことが未来への持続可能社会をつくっていくために不可欠なことです。

唐人町の林一族の墓 正覚寺公園の入り口のところにあります。

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米俵 算盤 急須などが墓に描かれています。

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国分中央高校の裏の墓地にあった津曲家の墓にも同じようにのぼり竜の描かれた墓がありました。

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 唐人町から舞鶴城にいく城山をみる。城山の麓に舞鶴城はつくられたのです。

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唐人町から舞鶴城にいく途中で秋葉神社。龍大向山として水神碑があるのです。中央町4-4-18です。

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字気母知神碑(食物神) 県道60号から国分駅への交差点にあります。若宮神社境内にもあります。

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火の神と明治17年、馬頭観音慶応4年 中央町1-7-32 県道60号で前記の碑の近くに。

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 国分駅前の秋葉神社 国分の町並みには神仏習合の火を防ぐ神として祀られています。霧島山麓の修験道の習俗的伝統文化が残っているのです。


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 舞鶴城の遺跡は現在、国分小学校と国分高校になっています。

 
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 舞鶴城の石垣は今でも残り、高さ3メートル、長さ200メートルの野面(のずら)積みの石垣と堀が歴史の重さをを映し出しています。

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 国分諸国記によると慶長10年(1605)に国府の衆中564家部の氏名が記載されているが、義久没の4年後に国府諸士222人と半分以下になっているのです。

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 1765年「明和2年)の国分郷絵図 国分郷土誌付録図から 当時の國分郷村の町並みが碁盤のように道路がつくられていたことがわかります。

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舞鶴城の町並みは、京都の町割りを参考に、盤盤の目のように道路をつくり、整然とした方形の城下町であったのです。ここには、豊かな文化の発展と整然とした町並みを考えたのです。

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舞鶴城の朱門

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義久の辞世の句

 世の中の米と水とをくみ尽くし
   つくしてのちは天つ大空

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舞鶴城から唐人町に通じている東馬場通りです。

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舞鶴城の隣接しているところに大隅国の国分寺があったところです。その遺跡は現在保存されています。

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