霧島市国分中央高校の歴史・創設期青藍義塾・精華学校

 国分中央高校は明治39年に窪田二郎によって設立された精華学校によってはじまるとしています。精華学校は牧元喜右衛門の私塾青藍義塾の旧舎を借用して2年制男女共学の各種学校として生徒数68名として発足しました。翌年は生徒数100名になったということです。
 青藍義塾は明治22年に授業を開始したもので精藍は中国のことばからとったもので「青は藍より出でて藍よりも青し」という教育理念から4年間の学習内容であったのです。精藍義塾をつくった牧元喜右衛門がどんな人物であったのであろうか。今でも、牧元の名前は、国分中央高校を道路はさんで地区に子孫が住んでいます。牧元家では、精華学校の教師をしていたことは、知られていますが、現在のところ牧元喜右衛門とのくわしいことはわかりません。
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 精藍義塾は、前期は9月1日から翌年2月23日、後期は3月1日より7月20日に至ると義塾規則に書かれています。学科は英語、歴史、倫理、作文、地理、数学が2ケ年間で3年が英語、歴史、理化学、漢文、作文、数学です。4年が英語、倫理、漢文、作文、数学、生理となります。作文は3年後期から英語作文となっています。
 数学も代数や幾何学で4年になると立体幾何学という高度なものになっています。英語の授業などもスマイルの自助論を原書で読み英語で作文を書くなど高い英語力を求めていました。
 
 スマイルの自助論は世界的名著として、自分の人生を自分自身で努力しようとする青年に読まれている本です。向上意欲の前に壁はなく、人生の転機を見抜く才覚、生かす才覚として信念は力を説いています。国分の精藍義塾で学ぶ青年達は、イギリスをはじめとする世界の青年と同様に大きな夢を膨らませて、向上心をもって学んでいたと思われます。青藍義塾の学生達がどのような進路をたどり、社会でどのような活躍をしたかは不明です。今後の研究に期待するところです。

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 牧元喜右衛門がどんな人物であったかは今後の研究課題です。この旧舎を借りて精華学校がはじまっています。牧元と窪田二郎はどんな関係であったのでしょうか。
 窪田は明治4年8月16日西襲山村西光寺の古河八郎左門の三男として生まれ、その後に東襲山村重久の窪田助次郎の養子となります。
 明治34年に姶良郡東部8ケ村で結成された教育会で各種学校設立が決議されました。たがそのときは時期が早いということで中止になりました。明治39年に小学校の校長であった窪田二郎が退職して私学として出発します。

 青華学校の教師であった冨吉栄二は大正デモクラシーからはじまる戦前から戦後初期にかけての農民運動や社会運動の指導者でした。彼は芦田内閣で、逓信大臣を務め社会党の代議士会長であった人物です。明治32年から昭和29年まで生存。台風で沈没した洞爺丸船に乗って55歳で亡くなりました。
 冨吉栄二は、教師時代に社会主義山川均の親友の国分在住の浜田仁左衛門の指導を受けて農民運動に注ぎ込み社会運動に専念ということで教壇を去っています。

上記資料の出典は国分郷土史からです。さらに詳細なことはそちから確認してください。


 霧島は霧島神宮の六社権現、南の国の守護神である大隅八幡宮・鹿児島神宮があります。この文化は神仏習合です。竜柱、白像、蓮の花、二十四孝の儒教文化と神道、仏教が重なり多元的複合文化です。そして、明治8年3月1日付けの朝野新聞に竹下弥平名で自由と立憲主義をめざす憲法草案を書いた地でもあります。まさに竹下弥平はパトリア カーラ カーリオル リベルタス(ラテン語)

 祖国も大切だがもっと大切なのは自由であると憲法草案をあらわしました。そして、国会の早期設立による為政者を縛る憲法制定を呼びかけたのです。霧島では多様な価値を認め合い、自由で豊かな文化をもった世界に恥じない国の未来を考えた人々が明治の近代の創生期から暮らしていたのです。

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