沖縄三国時代の城(グスク)の面影と交易

 
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 沖縄の城(ぐすく)は村を守る神として拝む場所としての信仰的な意味をもっているのが多いのです。グスクは御嶽(うたぎ)と結びついているのです。三国時代の北山王が拠点とした城です。1368年に明が成立して、海禁政策を実行することによって、沖縄の三国は、正規の朝貢貿易の体制を確立しようとしのぎをけずっと争います。沖縄本島では、11世紀から12世紀にかけて三国による小国が生まれていきました。それ以前の集落の首長の按司(あじ)を束ね、石垣で囲む城をつくっていくのでした。グスクが大型になっていくのでした。

 集落をまもっていく拝所的性格をもちながらも城壁としての性格を強くもっていくのでした。世界遺産に指定されたグスクは、大型グスクであるのです。中山王は1416年の山北の征服、1429年の山南の征服によって統一した琉球王国が成立します。その後に、各地に構えていた按司は、1526年に首里城に集めました。明治10年まで琉球王国は450年間続くのです。薩摩に侵攻される以前の200年間の古琉球時代と薩摩に侵攻されてから江戸時代から明治10年の琉球処分までの250年の近世琉球王国時代です。

 今帰仁城は、城監守を設置して城を特別に維持し、1665年まで続きます。3千の薩摩軍が侵攻した1609年には城は武士団がほとんど逃げ、無人であったといわれます。1665年に城がなくなったが、地域の人々は拝所として守り続けたのです。
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 今帰仁城(なきじんじょう)跡
 北山王は、奄美の与論島や沖永良部島を統括していました。北山王は按司を連合的に統括したのであって、与論や沖永良部を独自に地域の首長としての役割をもっていたのであす。与論や沖永良部にグスクが残るもの沖縄の北山王との関係があったのです。北山王は、海の交通をとおしてのそれぞれの按司を統括したとみられます。グスクの守りは、陸上以上に、海からの守りに向けられ、海岸線からの絶壁の小高い山につくられているのです。

 
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場内にある御嶽(ウタキ)

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座喜味城遺跡

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中城城(なかぐすくじょう)跡
 14世紀後半につくられた城です。1440年に読谷村の座喜味城から移ってきた護佐丸によって,現在の遺跡の城の形ができています。すでに,この時期に鉄砲の穴が城壁につくられていたのです。明からの高度な技術をいち早く学んでいたとみられます。琉球国は統一したが、しかし、統一した初期では首里王府は、完全に沖縄をまとめていたわけではなかった。勝連城との対立が先鋭化したのです。1458年に琉球国王の護佐丸を倒し、王府打倒をはかったのです。

鉄砲を撃つ穴

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石積みの技術
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場内の御嶽(ウタキ)

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勝連城跡

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 三の曲輪に入る門で、ここは、勝連城の三つの曲の正門です。二の曲が本殿のあったところで、三の曲はもっとも高いところで、聖地として、玉ノミウジ御嶽(うたき)のあったところです。勝連城を守る神が祀られています。

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 玉ノミウジ御嶽で勝連城の守り神を祀った拝所です。

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 二の曲でガマで、天災や戦いのときに身を潜めるところですが、逃れ道にもなっています。琉球国王は、重臣の御佐丸を中城に住まわせ、勝連城の攻略をします。ところが勝連城主は、御佐丸を倒し、王府打倒に動きますが、同じ年に琉球王府によって、1458年に敗北します。そのときに、このガマは逃げ道として、役にたったといわれています。

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火の神でウミチムンということで、台所に祀られているとっころです。主婦が家族への加護を願うところであります。

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 二の曲の本殿のあったところです。

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