屋久島の自然信仰と山々ー持続可能な循環社会を考えるー

 
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益救(やく)神社は屋久島の各集落にあったそうですが、現在は宮之浦地区の総社だけが残ったといわれます。この神社の行事には、今でも各集落の代表が集まるようになっているのです。かつては、権現神社として、宮之浦岳を奥山として、信仰の対象であったのです。益救神社は、延喜式神明帳に記載されている格式のある伝統的な山岳信仰の権現神社です。屋久島の各集落の行事の岳参りには重要な役割を果たしていたのです。山岳信仰は屋久島に神仏混合として強くあったのです。
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 屋久島で登山をする人は、山の恩恵に感謝してきた岳参りのことを考えることも必要だと思います。まさに山岳信仰の権現山として、屋久島の山々があったのです。益救(やく)神社の境内には、仁王像の二体がすえられています。明治以前は寺と神社が一体となった権現神社であったのです。明治の廃仏毀釈のときには、土のなかに埋めて住民が破壊から守った仁王像です。屋久島の仏教の歴史文化を考えていくうえで、廃仏毀釈が大きな影響があったのです。

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 春牧集落は、安房に隣接しているところです。盛久神社は、春牧にあります。今でも権現神社といわれます。神社建物の隣には、小さな五輪塔と板碑があります。これは、神社の隣の本坊酒造工場敷地内にあったものをいくつか移したものです。
 屋久島は、日本ではじめて戒律を広めた鑑真が753年に上陸したところです。乱れた僧の風習を正すために日本の国を憂う2人の僧の熱心な招聘願いによって、唐での高僧の国外渡航禁止の中で、渡航の季節と場所も制約されます。厳しい条件のなかで、何度も渡航を失敗し、やっとのことで日本にたどり着くのです。屋久島では、15世紀後半までに鑑真の広めた律宗を信仰していたのです。屋久島は鑑真の思想の影響が強かったところです。


 15世紀後半の種子島家支配により法華宗に変わるのです。春牧集落の於手良(おてら)墓地には、一石五輪塔の律宋時代のものがのこっています。かつて律宋の五安寺がここにあったといわれます。屋久島は、中世時代に長く律宋を信仰してきたことの遺跡を探っていくことも鑑真と屋久島を考えていくうえで大切なことだと思います。

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 盛久神社では崇めることをせず、墓石を建てて仏式にしたら不思議なことが起こらなくなったといわれています。仏も大切にするということは、かつての権現さまの神仏混合のなごりではないかとおもわれます。屋久島の各村落誌よりみると、春牧は、もともと安房に地区の大字でしたが、戦後に独自に春牧の大字になったということです。春田の字は、地租改正によって、官有地になりました。切替畑地に甘藷を植えていたのが難しくなり、村民の暮らしはどん底になっていくのです。さらに、追い打ちをかけるように明治22年の官民有地調べで、共有薪炭林も官有地になるのでした。
 
 南薩の士族授産の薩摩精糖組、安房開拓場の責任者として来島した久米清太郞は、当時の住民の様子を「従前とは百分の一位に及ぼすだけの山と相成り、樟脳生産の前岳の6釜も官有地になり、取り除き、平の近辺も官有になり、はなはだ不都合になっている。安房の住民は朝夕の薪にも不都合になり、不幸を積み重ね心痛し」と記しています。そして、字春田、平野の開墾を村民と共に進めていくのでした。樟脳生産や開墾に農夫を80人から90人雇用して、山稼ぎのなくなった人々の雇用源にしたのです。また田んぼも開墾しています。

 久米清太郞は、いち早く、官有地の払い下げに取り組み、最も苦しい経済状態に追い込まれた住民を雇用し、また、開墾して、その土地を小作させているのです。小作料も5分の一の設定でした。久米清太郞は、西南戦争に二人の子ども残して、病院掛として、西郷隆盛の軍に参加しました。西南戦争の従軍日記には、西郷隆盛の軍に同行したことが書かれています。西南戦争に参加した清太郞は、どんな国づくりを考えていたのでしょうか。
西南戦争従軍日記(空白の一日)南方新社参照



 西南戦争の敗者として過酷な運命に一時期あうのですが、その後の人生に民のために奔走しているのです。彼は、明治政府の村持山を官有林編成で収奪された人々の経済再生に尽くすのです。つまり、貧困にあえぐ民の救いに智恵をだして、活躍するのでした。それらは、屋久島の開墾、樟脳生産などにみることができます。西郷の吉野開墾社の精神が生かされているのではないかと思います。
 西南戦争に西郷軍に参加した人が、その後に開墾事業に積極的に奔走している姿の一例です。また、自由民権を担う九州進歩党を結成し、30歳で県会議長、我が国最初の総選挙で国会議員になった折田兼至の開墾場が隣村の平野にあったのです。

 折田は、明治30年に鹿児島県政友会の誕生を期に代議士を辞めています。その後に鹿児島農工銀行の頭取になっています。かれは、同じ南薩の知覧村出身で久米清三郎と共に、薩摩製糖組安房開墾場として、官有地払い下げによる事業を担った人物です。薩摩製糖組は経営不振で明治23年に解散するのでした。しかし、二人は、開墾場の経営努力をして、事業を継続していくのでした。
 明治37年に上・下屋久村は、不当処分取り消しと国有山林下戻の行政訴訟をするのでしたが、大正9年に敗訴となります。しかし、大正10年に「屋久島国有林経営大綱」として、7千町歩の地元民の特別作業を認め、地元民の委託林を設定し、自家用薪炭の譲渡、生業のための特売を認るなどの「屋久島憲法」を定めたのです。

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 中間ガジュマルは集落内にあちこちに植えられています。これは、防風林のために江戸時代に積極的に植えられたものです。 中間の信仰の対象である七五岳を源流とする中間川の河口に位置する集落です。昔はカツオ漁が盛んな集落でした。 中間は屋久島で最も早く集落自家発電所がつくられました。急傾斜の中間川を利用しての発電でした。

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中間の神社
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昔ながらの森の再生のための植林を積極的に展開しています。

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 平内海中温泉 無人の露天風呂ですが、管理料としての200円を払うことを求めています。地元の人は昔から気軽に入っていましたが、観光客にとっては、ちょっと抵抗があるようです。でも入っている観光客もいました。

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 げじべいの里 森の精の妖怪がでるといわれるところです。 奄美本島にもケンムンという森の妖怪がいました。 原集落は大正13年に台湾から初めてポンカンが移入され、昭和30年代まではサトウキビ栽培が盛んな地域でした。現在、「げじべえ」の里として、村おこしをしています。「げじべえ」は、森の精の妖怪です。大木や老木などに住み着いているといわれます。昔は、大木を切るときに、ヨキやのこを供え、お神酒を奉ってことわりを言って切りました。山や森を傷つけると「げじべえ」はいたずらを仕掛けてきます。人間のわがままを見張っているのです。現代の持続可能な社会を考えていくうえで、中間のげじべいの里の運動から学ぶべきことはかなりあると思います。

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麦生集落は、隣の原集落と共に、大正時代からポンカン生産をはじめたところです。官有林区分のない昔は、自由に山に入ることがことができて、山は集落の人々にとって、薪炭や建築材として生活上に不可欠でした。それが、官有林に編成され、今までの慣行どおりに山に入れば犯罪になったのです。昔は漁業と山仕事で暮らしていたのでしたが、明治の地租改正の官有地区分によって、大きく崩されていくのです。
 大正時代にポンカン生産がはじまり、また、戦後の昭和34年に、新たにポンカンを生産して、 農林水産祭「むらづくり」部門で天皇杯受賞(1980年)日本一に輝きました。「ポンカンで日本一のむらづくり」の表彰を受けたのです。麦生集落では、旧暦4月3日、8月3日、11月24日に集落の代表者が奥岳にに参拝していましたが、現在はなくなりました。岳参りの登山道入り口は、「山口の神様」と言っていました。


モッチョムの道
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屋久島は雨が多く、山から流れる水が豊富なところで、あちこちに滝があります。

千尋(せんひろ)の滝 巨大な岩をすべり落ちる滝です。人工的にダムから落ちる滝のように一瞬みえました。

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 トローキの滝。海におちる珍しい滝です。

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 大川の滝。屋久島の滝で最大の落差88メートルをもつものです。日本の滝の百選にも選ばれています。

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屋根板の平木の重ね。瓦に替わる高級な屋根板として使用された。

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江戸時代に年貢として、屋久島は平木を納入した。平木2310枚で1俵に相当するものでした。

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 杉の大木を切った跡に杉が種子が根付いて育っていったものです。杉の木を完全に下から切ってしまうと杉の再生が難しいということで、杉の持続可能性をよく考えて杉を切っているのです。

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