肝付町の中世高山城跡と中世からの道隆寺跡

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 上の写真は本丸跡です。 肝属家の山城は、50ヘクタールという広大の面積を有する中世の巨大な天然の地形に囲まれた城です。また、反対側の丘には、中国宋時代の名僧が開山した道隆寺があったのです。肝付町高山は、中世時代に、高い文化と力と冨をもった肝付家の居城として栄えたのです。この山城は国の重要文化財に指定されています。

 山城の東方は、国見連山に連なり、内之浦からの侵攻からの天然の防波堤になっています。また、丘陵地帯にある山城で敵の侵入も難しくしてなっています。まさに、山の地形を利用しての強固に防御できる城となっています。高山城跡は、廃城になってから450年近くになりますので、その建築物の姿がありません。

城のあった当時は、大隅の覇者として、巨大な山城として威厳をもっていたと思われます。ここには、山の地形を利用した本丸、二の丸、三の丸、山伏城などが存在しています。戦国時代までは、高山城をもつ肝付家の城下町として栄えたところです。高山城は、肝付町役場がある高山町の中心街から国見トンネルに向かって、国道561号沿いのところになります。周りは地帯の奥まったところです。

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山伏城

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高山城の鎭神としての大来目神社

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 廃仏毀釈で消滅した道隆寺は、日本の禅寺では最も古いのではないかといわれるます。三国名称図絵で、1246年に肝付氏4代の当主によって、建てられたと記述されています。道隆禅師は、中国宋の僧侶で、3年かけて、この伽藍をた完成したといわれます。
道隆禅師は、その後に鎌倉に上がり、北条時頼に請われて巨福山建長寺を創建しましたとの三国名称図絵の説明です。鎌倉の建長寺は現在は、臨済宗五山第一の禅寺として大きな影響力をもっています。開山した道隆の説明には、肝付町の道隆寺のことは書かれていません。博多から京都、そして、鎌倉と書かれています。肝付家の山城の反対側の小高い丘に建てられた寺です。肝付家と密接に関係してきた寺です。
 

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 江戸時代末期の三国名称図絵に書かれていた道隆寺です。
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沖縄の僧侶の墓です。
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観音堂跡
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逆修塔による供養 島津家と長く対立して肝付家であったが、この逆修塔をどう理解するのか興味ある課題です。南北朝時代は、肝付家は、南朝方に属して、島津家とも対立していたのでした。

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磨崖仏五輪塔

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 寺の土台石
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四十九所神社は、894年頃に肝付家の祖といわれる伴兼行によって創建されました。肝付家の守護神で、大隅一円の総社として信仰されてきました。流鏑馬の舞台と有名な神社です。

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南北朝時代に楡井頼仲(にれいよりなか)が築いたという城山・弓張城跡がありましたが、その城山に高山やぶさめ館があります。肝付兼重とともに大隅を転戦した武将です。高山弓張城と高隅の松尾城を築城しました。1357年に足利方日向守護・畠山直顕に敗れ、ます。 その後も高山城の支城として残り、高山城の廃城後も1602年まで存続していました。

 やぶさめ館にいく県道から城山の入り口のにあった小さな鳥居のところにあった田の神さまです。

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国の重要文化財指定の直交した雁行型民家の寄造りです。二階堂家の住宅
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江戸時代前期につくられた隧道
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