ベトナム戦争中部激戦跡地を訪ねて(ドンホイ周辺)

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1965年4月にホーチミンルートの麓であったドンホイの町はアメリカ軍によって壊滅状況になります。今の市人口は10万人余です。町からみえる山岳地帯の向こう側はラオスです。住民は疎開しての生活を余儀なくされました。現在は、村全体が地下壕になっているところの跡地も戦争遺跡として保存されているのです。この跡地は、外国人を含み多くの観光客が訪れています。

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 ベトナム戦争は第2次世界大戦の戦後世界史のなかで大きな悲惨な出来事でした。日本でも60年代後半から70年代前半にベトナム反戦運動が全国的に展開されました。ベトナムは、日本の敗戦により、1945年9月2日に独立宣言をしました。しかし、再びかつて、ベトナムを植民地にしていたフランス軍が侵攻してきたのです。

 フランスとの闘いは1954年のジュネーブ平和協定まで続きました。17度線の停戦協定がひかれ、双方の軍隊は、北と南にわかれたのです。2年後に選挙が行われる予定でしたが、アメリカのかいらい政権が南に打ち立てられ、再び長い戦争に突入していくのでした。その戦争は1975年4月の南ベトナム政府のサイゴン陥落まで続きます。17度線が引かれたベトナムの中部は激戦地であったのです。


パリ協定のシンボルの像

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 壊滅したドンホの市は、キューバのカストロも訪れ、キューバ建築家の設計と技術者の援助によって町で暮らせるようにしたのです。アメリカの経済封鎖が1994年まで続きますが、1975年の戦争終了後に復興させていくのですが、厳しし生活を強いられたのです。今は、観光地に生まれかわり、外国人も訪れるリゾート地にもなっています。


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 ベトナムは1994年まで経済封鎖をアメリカ主導によってなされ、厳しい生活をさせられました。ベトナムの真の解放は、1995年以降とみるべきでしょう。現在のベトナムの発展は、20年間の成果とみるべきです。この意味でベトナムは、廃墟の最貧国のどん底からの急速な経済発展を遂げているとみるべきです。


 川を渡る兵士達をのせる船をこぐのは、女性達でした。これを組織した女性を独立を守り、ベトナムを解放した母としてたたえています。その女性の像です。


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解放の母の像の近くは市場になっています。市場で活躍するベトナムの女性たちです。


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アメリカ軍によって破壊された教会の残骸です。


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公共の道路も稲の収穫後の干し場になっています。ベトナム人は利用できるものはなんでも積極的に利用しようとするたくましさのあらわれです。


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 住民達は7年間地下での生活を強いられるのです。そこには、病院もあり、この地下生活で生まれた多くの子どもたちもいたのです。

 下記の写真は地下壕の入り口です。


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地下壕の生活のなっかで生まれた子ども達の記録写真です。


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全長42キロの地下壕です。

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古事記の話にでてくる山幸彦が竜宮城にいったとされるときに、乗った竹籠の船の話がありますが、今でもベトナムでは竹籠の船が使われています。


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激戦地のクアンチィ城の破壊された城壁跡


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クアンチィ城の今は公園になっていますが、その中心に慰霊碑がたてられています。


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クアンチィ城を囲む堀です。


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クアンチィの破壊された高校の遺跡


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17度線の橋です。


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中部の激戦地で亡くなった人々の墓地です。



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